memo/01

なんとなく文字を書きたい気分です。
よろしければ私の雑談にお付き合いください。

私は友人に疑問に思うことを聞いてみることがあります。
それは「気になった」を問いかける子どものような感覚に近いのかもしれません。
大体「こうなるんじゃない?」が返ってきたり、相手が知っていれば「こうなるんだよ」が返ってきます。
その後、じゃあもうちょっと調べてみるか~というのを繰り返してきました。
あくまで私の経験だけではありますが。

なので、発生する疑問の段階では「回答が欲しい」以外に、興味の掘り下げる意図の場合が存在すると考えています。

有識者による回答がどういった経緯で導き出されたものなのかわかることが出来ない以上、複数の回答を見つけなければならない。参考文献がわかったとしても、有識者が汲み取った内容と、私が読んだときに汲み取る情報は、必ず一致するわけではありません。
最近思うのは、読書家の人=文章を読み取ることに長けている人ではないのだなといった点で、(読書好きといっておきながら…という意味ではなく、解釈の正確性はよく本を読むか読んでいないかの違いで決まるものではないという意味です)同じ解説を読んでも文字通りに汲み取っていない、誤読している場合があるということ。

けれど、本をたくさん読むということに意味があるのは、1つの事象に対して、本毎に回答が設けらているからであって、魔女について語る本を1冊読むのではなく、複数読むことは、複数人から知識と回答を聞いたことに等しく、またそこから自らの考えを整理することができるから、というものなんだと私は思います。

つまり1人の魔女の語る話から導いた歴史と、10人の魔女が語る話から導いた歴史は、視点の量が違う。当たり前のことではあるのですが。

その全てを経由した後の有識者は、私の何気ない疑問に対して、既に回答を持っています。
それが正しい、正しくないではなく、相手にとっての「回答」を私に提示するものであり、レファレンスサービスのような疑問点を解消するヒントや情報提供にはならない。
手っ取り早く回答が手に入りますが、一方で、その回答Aと対立する回答Bが存在し、回答Bの視点からすると、回答Aが間違っていると気づけないことは愚かである、といった話になっていきます。
しかし回答Aと回答Bを比較しどちらに比重を置くかどうかについては、それぞれが経由した知識を履修しなければ到達できるものではなく、私による回答(Aを選ぶ、Bを選ぶ、Cにたどり着く)がその場で選べないことや、その場は回答Aだと思えても数年後に回答Cになっていることも、決して悪いことではない…というのが、おそらく、本来の前提なのでしょう。

そして、私はそういった質問ができる友人を今はほとんど持っておらず、故に、一人その疑問を呟くだけの場所を探しています。それに反応を求めているのではなく、ただふと「呟きたい」。しかし結局のところ、鍵アカウントが一番ちょうどいいのだろうなとも思うのですが。
些細な疑問を気軽に発生することが許される環境は、歳を重ねるにつれ、1対1でしかもはや成立しないのだろうなと感じます。